嫁がうつになりまして。~うつ病ママとその夫の記録

うつ病および統合失調症の嫁と暮らすアラフォー夫視点の日常の記録

もし嫁に「死にたい」と言われたら

実際に一時期、嫁は自殺願望が強い時期があった。ちょうど人間関係で揉めて自殺未遂を複数回おこなった。方法からして心底死にたいようではないものであったが、これでは続けているうちにいつか本当に死んでしまうのではないかと心配にもなったものだ。と、今はその自殺願望が鳴りを潜めているからできる書き方だ。


ところで僕は、死にたければ死ねばいいし、生きたければ生きられる限り生きればいいという考えだ。よく他人に向かって「生きろ」などとテレビドラマなどで説教がましくしているシーンがあるが、あれにはどうもその言っている人間の傲慢さしか感じられない。所詮は他人事であるし、生きる死ぬはその人の自由だ。
死んでしまうことは無責任または責任放棄だと言う人もいるらしい。これもまた、余計なお節介だ。人間誰しも、どこかしら無責任な部分はあると思っている。責任感の強さゆえに失敗し、他人に迷惑をかけることもある。生きる死ぬは、やはり自分で自由に決めたらいいのだと思う。こんなことを書くと「逃げるのか」と言われるかもしれないが、その通り。いざとなったら逃げてしまえばいいのだ。三十六計、逃げるに如かず。


嫁に「死にたい」といわれたときは、上記のようなことを書く僕でも正直答えに窮した。しかし、「死ぬな」「そんなこと言うな」とは言えなかった。それは嫁に対する答えではなく、僕自身の感想にすぎないからだ。だからといって「逝ってよし」とも簡単に言えない。少なくとも、嫁が自殺未遂をやらかしていた頃はそのような感じだった。
だけど、もし、本気で死にたいと思っているのなら、心底そう思っているのなら、僕は止めないいや止められないだろう。夫婦といえど、そこは僕のエゴで止めていいものではないと思っているからだ。ただし今のところ、嫁が本気でそのようなことを思っているという様子はない。しかし、いつ本気で思いつめるかわからない。そして、本気で死にたいと言ってきたとき、僕は果たして落ち着いてそれを承認できるのかどうか、今はまだわからない。


それでもやはり、人の生き死にはその人個人の自由だと思う。他人に強制されるものではない。「生かされている」という言葉があるが、僕はあれが大嫌いだ。せっかく選ばれて世に出てきたのに何故、恩着せがましく言われなくてはならないのだ。生きるも死ぬも、自分の勝手だ。どちらにしても、多少の迷惑は被るのだから気にする必要はない。いずれにせよ、僕は自分のエゴで嫁の気持ちを統制することだけはしたくない。

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